麻豆APP

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麻豆APPの歴史

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麻豆APPの歩み

 1883年(明治16年)に福井県で飞嶋文次郎が土木请负业の「飞岛组」を创设して以来、明治から令和にわたり建设业を通じて社会の発展に贡献し続けてきた当社の歴史の一端を绍介します。

飞嶋文吉の写真

飞嶋文吉

 「飛島組」の隆盛を導いた実質的な創業者の飞嶋文吉は、1876年(明治9年)、文次郎の長男として生まれ、1888年(明治21年)の13歳から石工として父の片腕となり、土木請負業者として実力を発揮していきました。
ただ、草创の时期は、必ずしも顺风満帆とは言えず、1897年(明治30年)、石川県手取川の改修工事で引渡し直前に袭った豪雨により、工事现场が一夜にして流されて亲子ともども手痛い失败を负い、艰难辛苦の时代を経験しました。
しかし、1901年(明治34年)の福井県立农学校敷地造成工事で、ようやく転机が访れました。文吉は、土砂の运搬に牛车などを使用していた时代に、当时としては最新の道具の「トロッコ」を採用してコストダウンを実现し、しかも半分の工期で完成させたことで请负业者として高い评価を得るに至りました。

 その后、飞岛组は福井県内の水力発电所で発注者の高い信頼を获得し、それを契机として、明治末から大正にかけて国内产业が隆盛し水力発电が盛んに建设された时流に乗り、「水力の飞岛」「土木の雄」として全国に飞跃していきました。
関东には、1915年(大正4年)の栃木県鬼怒川堤防工事で初めて进出しています。

 「己の利を計らんと欲せば己の利を後とし、これを犠牲としてまず相手の利を計れ。相手に提供した自分の犠牲は己の努力と創意工夫をもって補え。」という飞嶋文吉の経営理念は、現代の「顧客ニーズの最優先」に通じます。
工事に対する诚実さ、责任感の强さは人一倍で、発注者の信頼も厚く、次々と全国の难しい発电所工事などを任せられるに至りました。
こうした文吉の人间性に引かれ、熊谷叁太郎(后の熊谷组、昭和13年独立)、前田又兵卫(后の前田建设、昭和21年独立)など优れた协力者が参集し、飞岛组の跃进の原动力となりました。

 また、昭和初期の大不况の时代にも先见の明を発挥し、1931年(昭和6年)、新たな事业として羽田飞行场(羽田空港の前身)などの埋立事业にも进出しました。

 飞嶋文吉は、1939年(昭和14年)、64歳で亡くなりました。

 戦后、飞岛组は公司再建整备法の适用を受け解散し、文吉の叁男の飞岛齐が1947年(昭和22年)3月に飞岛土木を设立しました。
飞岛组の解体に伴い、飞岛土木は100人に満たない社员とわずかな机械で、残余工事で急场をしのぐ大変厳しい出発となりましたが、社员の悬命な努力により、戦后の復兴に伴う水力発电工事などを受注し、建设业者として復活を遂げました。

 昭和30年代の高度成长时代には、新干线、高速道路、地下鉄工事などの土木工事に実力を発挥しました。
1965年(昭和40年)に、折からの住宅ブームに呼応し、土木偏重のイメージを一新し麻豆APPと改名しました。

 その后、青函トンネル、本州四国连络桥、东京湾アクアラインなどのビッグプロジェクトにも参画し、また、建筑の分野でも、レジャー施设のヤマハ「つま恋」、大规模な集合住宅の「须磨パークヒルズ」、民活第一号となった「かながわサイエンスパーク(碍厂笔)」などの着名な建筑物についても、当社の设计?施工で完成させてきました。

 2024年10月に当社は飞岛ホールディングスグループの一員となりました。今後はグループの中核企業として、これまで培ってきたイノベーションマインドと豊富な技術開発のノウハウを最大限に活かし、飛島グループ全体の企業価値向上を目指してまいります。